[自殺] 恐れていた事が起きた、といった印象。

小5飛び込み「みんな大好き」

(主に)マスコミと世論のせいですね。
桜宮の体罰問題、大津のいじめ事件。まぁ、挙げれば切りがありませんけど。

自殺=復讐や問題解決の為の手段として子供に認知されてしまった、ということでしょうか。

…まぁ、自業自得、とも違いますけど、自殺した人=正義、みたいな風潮はやめるべきです。むしろ、殺人を犯した人と教えるぐらいが丁度良い(※)。
これからも、きっと模倣犯(と言っていいのか)が続くと思いますよ。

「人一人が自殺してるんだよ?」「その子の親でも同じ事が言えるのか?」

やたら連呼されている言葉ではありますが、いい加減、安っぽい正義感を一度引っ込めて、冷静かつ合理的に、また客観的にかつ個別に物事を見て行くべきです。
…つまり、一度自殺を容認してしまうとこういう事態を招く(※※)、という事実をですが。

参考コラム:
※法的に言えば、殺人罪と傷害罪では圧倒的に殺人罪の方が重いです。…これは当たり前。
…悪に悪を返してはいけません。悪に悪を返すのは神(宗教及び道徳)と法(司法権)の役目だからです。勘違いしてはいけないわけですが、悪事をした人を懲らしめるのは法令違反を犯した(刑法的領域)からであって、相手に対して害を成したから、その報復として懲らしめを受ける訳ではないです。また、相手方から受けた不利益(民事的領域)は賠償金(慰謝料)として「金銭」で回復が図られるにすぎません。
…大津の事件で言えば、それぞれ傷害罪や窃盗罪等の成立はあり得るでしょうが、自殺に追いやった、という罪は存在しません。ただし、「自殺の練習等」は殺人罪の教唆(共犯行為)として成立し得るかも知れません。また、民事的な領域においては慰謝料の請求は(一応)期待できるでしょう。…何れにしても、自殺=殺人行為という事実は揺らぐことはなさそうですね。

※※…法の役目として、いくつかありますが、抑止力という面があります。殺人行為が明確に悪とされている以上、自然かつ絶対的に、禁止であるということです。法を犯した人に罰を与える事で当人、及び第三者への抑止力とするわけですが、自殺の場合当人を罰する事ができないので第三者の自殺に対する抑止力としての効力を失ってしまいます。

<追記>
世論を煽って購読者やフォロワーを増やす、というのはいつものことですが、
ちょっと、行き過ぎているように感じます。
…まぁ、それに乗せられてしまう気持ちも解りますが、
一度冷静になって俯瞰(上から目線かつ客観的に)から見てみると、
感情移入している時とは真逆な対応ができると思います。

…例えばですが。
自分や友人が酷く屈辱的な行為を受けたとします。当然許せない気持ちになりますね。
それは自然なことです。
しかし相手の立場や感情を一歩引いて考える事ができれば許せることもあるでしょう。
これもまた人として自然なことではないでしょうか。
一度怒りや悲しい感情を引っ込めて、「加害者の立場になって考える」こと。
これが今の日本人、とりわけ、若者に欠けていることだと考えます。

…難しいんですけどね。日本人は優しい(センチメンタル)ですから、
被害者のことを必要以上に保護、感情移入してしまう。とりわけ、親族や友人の場合はそうでしょう。
…一面正しい事ではありますが、加害者と被害者という関係は複雑なものですから、
より酷い事をしたからといって、それだけで一方的に加害者になることはまずありえません。

…そういった時に、物事を俯瞰から見てみる事で物事に対する正しい見方を見いだすことができます。
是非、そういった、一種ドライな合理的な思考を身につけなくては、
今の複雑な契約社会を乗り切る事はできないと思います。

…私の父などもニュースを見て体罰を犯した教師に辛辣な言葉を浴びせていました。
多分、それが普通でしょう。そういった人々を非難するのは難しいかも知れません。
橋下さんもそういった集団心理を上手く利用していると思います。
メディア人としてはとても正しい。政治家としても、正しいかも知れません。
(民意を反映しているので)
しかし、そうだとしても民意を反映させることだけが政治家の役目ではないはず。
「ぐいぐいな感じに飲み込まれている周り」とおっしゃられるように、
日本人は長いものに巻かれる傾向があります。要は自己の意思や立場が弱いのです。
そういった所、修正していく必要があるのかな、と思います。

昔は、個人の意見が尊重されない(集団の秩序等が尊重される)世の中だったので、
こういった問題が出なかったのですが、現代はそうではありませんからね。

以下、やや長文のコラムです。
…昔々、古代ギリシアが民主制のお手本とされていますが、そこでは自己の立場や権力を確立するために戦争に参加する権利を奪い合いました。戦争に参加することで漸く市民としての立場(公民権=選挙権や参政権と言っても良いです)を確立することができたのです。そしてこの原理は現代の西欧諸国等にも一部受け継がれています。

我々には<納税、勤労、教育の義務>があります。これらを果たす事で公民権を勝ち得ています。では何故教育を受ける(権利ではなく)義務が課されているのでしょうか。
それは、何も教育を受けさせる事で高収入の仕事に就かせるためだけではありません。
一番重要なこととして、公民権を正しく公使するためには、正しい教育を受けなければいけない、という思想からなのです。…しかし、実際のところ、現代の国語や社会(特に歴史や公民の意義が軽視され過ぎていますが…)はこのような思想から逸脱し、受験勉強のための一教科に過ぎない(果ては無視される)扱いとなってしまっています。
…これでは、ほんとうに意味が無いです。他の数学や理科、英語なども間接的にではありますが、しかし、確実に、公民権を正しく用いる為に(も)使われるべきなのに…。

結論としては、、、
日本や地方を正しい方向へと導いてくれる人を政治家や識者として迎え入れていくためには、まず一人一人がきちっとした自分の立場や意見を確立することが大切だと思います。そのためにはまず国語、社会、道徳といった直接心を精錬する分野を正しく学ぶ事が大切です。そして、それだけではなくて、自分の中の「正義の基準」を保つ事が大切です。

自殺の心理学 (講談社現代新書)
(自殺ってのは、悪ですよ。)


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